貧乏どん底&ひきこもりスタートからリタイヤ生活にもっていった話

貧乏とひきこもり経験者が楽しい人生を送っているブログです。

《微妙。。。》自己責任について。

貧しいのは本人のせい?エリートに広がる「自己責任論」、越えるには

 

という記事を見つけました。

 

私も自己責任で貧乏になっていると考えているので、貧乏=自己責任ではないというこの記事に着目し、私の意見も赤文字で書いていきます。

ただ、この記事見ても自己責任だと思ってます。

※親の貧困が子供に影響があると考えているので親の貧困が子供の貧困に繋がっている事は子供には責任はないと感じてます。しかし、子供が大きくなりそこから何もしないのは自己責任だと感じてます。

 

 

記事はリンク切れ懸念のため、貼付けしてます。

 

 

 

生活が苦しい人のための政策を考えるとき、必ずと言っていいほどネックになるのが「自己責任論」です。“貧しいのは本人の責任”、“努力しなかった本人が悪い”。日本に広く行き渡ってしまった考え方ですが、格差問題に詳しい社会学者の橋本健二早稲田大学教授によると、特に高学歴・高収入の人はこう考える傾向が強いそうです。どうすれば自己責任論を乗り越え、本格的な貧困対策に取り組めるのか。橋本さんに聞きました。

 

貧困は自己責任じゃない
――世の中に「貧困」を「自己責任」とする考え方が広まっているようで、残念です。

ものごとを選択する余地がある場合に限り、人びとは責任を問われるべきです。たとえば、パート主婦や専門・管理職をのぞいた非正規労働者をわたしはアンダークラスと呼んでいます。収入が低く、雇用が不安定な人たちです。アンダークラスの人びとに自己責任論は成立しません。低賃金で不安定な仕事を社会的に強制されているのです。

※私はホームレス経験者でも低賃金を強制されたとは思ってませんでしたし、今もそんな考えはもってません。低賃金で不安定な仕事を「社会的に」強制されていると書いてますが、日本国憲法では「職業選択の自由」というものがあり、自分で職業を決めて良いと日本国では認められてます。逆に高学歴な人と差が無いとするなら、誰も努力しませんし、「差」こそが努力するかどうかの原動力だと考えてます。

よって強制されているという表現で、もし本当に強制されているのならば、強制労働として憲法違反、つまり逮捕案件では無いかと思うのですが。やりたくなければやらなければいい話ですね。ホームレスやれば良いんだから。

ただ、「政策」という点であれば 成り立ちますが、私は貧乏人を全て救うなんて崇高な志はありません。貧乏でも努力し続ける人にだけこのブログがきっかけで富裕層に入れる人が出たならばそれで良い。

努力もしないで助けろと

努力して助けろと

同じ助けるにしても全く性質の違うものですので、努力しないで助けた所で何かメリットありますかね?

 

 

貧しい人びとが自己責任論に陥ってしまう理由
――でも、生活が苦しい人たちの中にも、自己責任論を受け入れる人たちがいますよね。

たしかに、自己責任論はアンダークラスの人びとにもある程度まで浸透しています。「貧乏な自分」という現実がある中で、「自分は努力している」「自分には能力がある」と思い続けるのは難しいことです。矛盾と葛藤を抱え込むことになるからです。

しかし「自分は努力しなかったし能力がないんだからしかたがない」と考えてしまえば、現実を静かに受け入れることが可能になります。そのように自分を納得させてしまう人々が、アンダークラスの中に一定程度いるのは事実でしょう。

ーーアンダークラスの人びとがすすんで自己責任論に賛成している訳ではない。むしろ貧困の現状に折り合いをつけるため、「自己責任だ」と考えざるを得ない人びとがいる、ということですね。

そうです。一方で、「自分は努力している」「自分には能力がある」と思い続けるなら、「社会が間違っている」という認識にたどり着く可能性が大きくなります。

哲学者のジョン・ロールズが書いた『正義論』で一番のポイントは「自尊」(セルフリスペクト)です。これがすべての人に保障されるべき最も重要な基本財であると、ロールズは書いています。アンダークラスの人びとにいま必要なのは、このセルフリスペクトだと思います。

※努力って当然だけど人それぞれに努力するレベルがあって、ホームレスからリタイヤするまで持っていく努力って普通の努力では無かったとは思うし、その努力のために遊んだりしなかった。土日も勉強してたし、睡眠時間も少なくしていた。

そういったのを努力とは言わず、ブラックだと言うならそれで良いんじゃないかな、、、振り返ってみてもあの時の努力をしたから今があるし、しんどかったけども結果は出せたし。でもその一定の努力をできないとか自分なりに努力してるとか、自己採点されても意味ないし、努力ってがむしゃらにやって良いわけではないし、ある程度正しい方向に一定以上の努力をするから結果が出る可能性が上がるだけで、正しくない努力したって時間のムダだからね。

ある程度正しい努力してますか?

 

エリート階級に浸透する「自己責任論」
ーー貧しい人びとが自己責任論に陥っていることを指摘するよりも、セルフリスペクトの精神を培ってもらうことの方が、有意義だと感じます。

さらに言えば、ほかの階級の人びとと比べれば、アンダークラスへの自己責任論の浸透度は低いと言えます。わたしを中心とした研究グループが2016年に首都圏で行った調査では、格差に対する意識を聞いています。「貧困になったのは努力しなかったからだ」という設問に対し、「ややそう思う」「あまりそう思わない」などと答えるものです。

階級別にみていくと、企業の経営者や役員などの「資本家階級」や、会社の専門職や上級事務職など、わたしが「新中間階級」と呼ぶ人々のあいだで、「貧困になったのは努力しなかったからだ」と考える人の割合が多かったのです。

――資本家階級に自己責任論が広がるのはうなずけますが、新中間階級の人びとにも同じ傾向があるのですね。そもそも新中間階級とはどのような人たちですか。

企業などで働く専門職、管理職、上級事務職。学歴が高く、情報機器を使いこなし、高い収入を得ている、つまり恵まれた豊かな生活を送っている人たちです。

 

2000年代に入ってその傾向は強まった
――この層の人々に自己責任論が広がっているのですか。

新中間階級に自己責任論の傾向が強まっていったのは、ここ20年のことだと思います。先ほどとは別の調査によると、1995年まではかろうじて、新中間階級はリベラルだった。不公平がこの世の中にあることをはっきり認識していた人が多くて、富裕層から貧しい人にお金を回す「所得再分配」にも割と好意的でした。

ところが2005年からアレっという結果が出るようになりました。

――なぜ、2000年代から新中間階級に自己責任論者が増えてきたのでしょうか?

戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています。

なぜ自己責任論が容認されるのか?
――資本家階級に自己責任論が広がっているのはうなずけますが、なぜ新中間階級で目立つのでしょうか?

自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。プラスは「自分が恵まれているのは自分のおかげだ」、「自分が努力し、能力があったからだ」という側面です。これがマイナスにはたらくと、「自分が貧乏なのは自分のせいだ」となります。これは表裏一体の関係です。

新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。この人たちはまず、自身の成功をプラスの側面で考える。「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方です。

そしてこの層の人々は論理的にものを考えますから、必然的に「貧しいのは本人の責任だ」となる。そうしておかないと論理整合性がとれないのです。こうして、強固な自己責任論が成り立ちます。

 

自己責任論から脱却するには
――「論理」を大事にする人々に自己責任論から脱却し、貧困対策に積極的になってもらうには、どうすればいいですか?

正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています。

いまは恵まれた新中間階級でも、子どもがアンダークラスに入る可能性は十分あります。大学を出てもいい仕事に就けるとは限りません。だとしたら、アンダークラスが生まれないような社会の方がいいし、仮にアンダークラスになったとしても、最低賃金で1500円もらえる社会の方がいいわけですよね。1500円だったら子どもがフリーターになってもそんなに絶望する必要はない。

また、子どもだけでなく、いま新中間階級の人たち自身が老後に転落する可能性もあります。退職金は減っているし、年金の水準も下がっていきます。よほどの大企業に定年まで勤めた人でなければアンダークラスに転落する可能性があります。いくらか貯金があっても大きな病気をしたら1千万円くらい簡単になくなります。

格差の大きい社会は不健康な社会
――新中間階級の人びともいつ生活が苦しくなるか分からない、ということですね。

もう一つ言いたいのは、格差の大きい社会とは不健康な社会であるということです。貧困に直面している人々だけでなく、それ以外の人びとにもさまざまな悪影響がある。

格差の大きい社会ではストレスが高まり、病気になる確率が増える。犯罪に追いつめられる人が多いので、犯罪被害にあう確率も高まる。社会全体から連帯感が失われていき、助け合いによって問題解決する雰囲気がなくなります。

※新中間層より上は自己責任論容認だという内容で、自己責任論を脱却し、貧困対策に積極的に・・・・と書いてますが、要はある程度稼げる人は貧乏人を助ける意識を持ってほしいと書いているのだと思います。しかし「自分の利益」がやっぱり先生となるとビジネス(お金を稼ぐ)のは不得手なようですね、私からしてみると何にも利益に見えません。仮に自分の息子が職に就けなかったとして時給1500円だったら絶望しないのか?しますよ、時給は高くてもフリーターですから。身体壊したらおしまいじゃん。

隣国の韓国では最低時給を選挙公約にし、相場を超える時給設定を法律で定めた結果、機械化を進め雇用を最小限にしているという。時給を上げれば良いって問題ではなく、相場を引き上げできなければ時給を強引に上げても韓国のように究極の機械化が進み今まで100人の雇用を5人に減らす方法を考えるのが経営者であり、市場の流れです。 

貧富の差が大きくなれば治安も悪くなりますし、不健康なのは間違いないです。

ですがこんなのは日本に限らずどこでも一緒です。

 

 例えば私の子供がアンダークラス(貧乏人)になる可能性として私が事業で失敗し倒産するとします。確かに倒産まですれば私は無職になり、場合によっては私個人に借金もあるかもしれません。

そのリスクヘッジ(倒産した場合を想定して)として、妻には今も一部上場企業の正社員として働いてもらっているし、もし事業に失敗した原因による私個人に多額の借金ができたと想定して、妻とは「離婚」を選択するように話が済んでいる。もちろん子供の親権は妻になるように素早く離婚に至る予定だ。

だから妻が働いているのは生活の為では無いと言える。

未来に予測不可能な事が起こってしまって私か私の法人が破産するとかになった時の為の「保険」として働いてもらっている。

 

こんなの経営者であれば倒産リスクはある程度あり、そのリスクヘッジは想定するものだから、もし倒産なんかした場合は上記行動をするだろう。

 

子供の為に私の事業の失敗の迷惑をかける訳にいかないでしょ。

妻の収入だけで子供は育てられるはずかな、、、小学校から私立とかでない限りは。

 

 

平時に準備をする事こそ被害最小限にすると考えているし、貧乏人はこういった準備をしていない。

または準備する時間も余裕も無いとか言い訳をする。

経験者だからわかるよ。。。

 

でも法的問題と倫理を守れば社会人は結果が全てなんだよね。

 

 

遅すぎた「就職氷河期世代」支援
――そんな不健康な社会がいいとは思えません。政府の格差対策についてはどう評価しますか? 最近では、正社員への道が険しかった「就職氷河期世代」への支援策をまとめましたが。

まず、遅すぎます。いわゆる就職氷河期世代の人々はもうすでに40代です。生涯未婚とか、生涯子どもなしとか、そういう人生にすでに突入した頃になってようやく支援と言い出す。この鈍感さは問題です。

支援策の内容は資格取得の支援とか、とにかく支援してやるから頑張って働け、頑張ってスキルを身につけて働け、と言っているようなものです。待遇の改善については見通しがありません。本当にこれらの人々の生活を支えたいと思うなら、時給1500円を保証するのがいちばん実効性のある政策でしょう。

あくまでも、就職すること、まともな賃金を得ることは基本的には自己責任であるということを堅持したうえでの支援策です。自己責任論の範囲でしか取り組もうとしていない。だから、実効性のある対策は出てこない。

 

就職氷河期世代の支援について確かに行動にするのが遅すぎますね40代で独身ですよ?もう一生結婚できない可能性は超高いですので、これを10年早めていたら結婚率も出産率も上がっていたとは思います。

ただし、どんな支援策も時給1500円とか言っちゃってる段階でどんなに政府が支援しても不安定な生活は変わらないというのが判ります。

ぶっちゃけ1500円にしたとしても生活は劇的には変わりません。

 

――自己責任論は政治の世界ではいつから広がったのですか?

たとえば1990年代の末に小渕恵三内閣のもとで開かれた「経済戦略会議」の答申です。私なりにかみ砕けば、この答申は「今まで日本は平等すぎて活力がなくなった。だから自己責任の社会にしよう」と宣言したものです。

本当はまさしくこの時期に、すごい速度で格差が拡大していたのですが。この傾向が今でも続いています。格差対策を進めたいなら、まずは自己責任論を頭から追い出さないとダメです。

 

 ※自己責任論を排除するには格差社会を無くす事だと書いてますので、私の格差という定義は超貧乏がいて、超金持ちがいる。これを格差いい、格差対策=格差を無くすという意味ならば現段階では政府もその格差を無くそうとワラワラ動いている団体も「富裕層やお金を持っている法人」から搾取すれば良い。という考えなのでしょうか?

それは愚策ですよ、やるなら貧乏人を引き上げる対策しましょう。

 

だって貧乏人の数と富裕層の数、どちらが多いの?どう考えても貧乏人の数が多い訳で、そこを引き上げる事で格差を無くす方法を取っていかないと。

金持ちから搾取したとしても人口が多い貧乏を底上げするのは不可能ってもんです。

貧乏人を普通に持っていく、普通の人をそこそこ金持ちに持っていく。

そんな中、貧乏から超金持ちも出てくるし、存在するだけで夢を与えるし、全体的な税収も増えるし、何も悪くないと思うんだけどね。

 

貧乏の底上げでも超金持ちは何も困りませんのでみなハッピーってやつですよ。

 

しかし、、、、この記事読んでも「自己責任」だと思いますねぇ。

だって金持ちになっても「自己責任」だし、貧乏でも自己責任。

 

結婚するのも離婚するのも自己責任だし、借金するのもしないのも自己責任。

奨学金を使うのも使わないのも自己責任。

 

だって自分の判断なんだから。

 

 

で、素朴な疑問が。

 

格差を無くすのには自己責任論を脳内で排除して、何が残るのでしょうか?

何がプラスになるのでしょうかね?

 

何も起こりませんし、仮に起こったとしてもあなたの人生には間に合ってませんから。

 

政治家でも目指すのですか?

国を動かすってそんなレスポンスで動く事はありません、国の支援を待ち続けて今回のような就職氷河期世代は人生でかなり出遅れてる感ありますよ。自分の人生に間に合わないムダな行動や、時間を使うのは得策とは言えません。

 

就職氷河期世代の人が支援を期待し待っていると仮定すると、実に20年とか経過してますけど、人生大半の勝負事が終わってます。

しかもこれから支援するかどうか?が決まるのですよ????※22歳で卒業し20年経っていると仮定すると42歳ですよ今。

 

 

おっそ。

 

時間かかり過ぎだし、人生で終わりが少し良くなってる程度のもので、実はそんなにハッピーティケットではないからね。

 

自己責任であろうがなかろうが、結果が全てです。

脳内で自己責任論を排除して何も手に入らないって、時間のムダだと思いませんか?

 

お金を稼ごうと日々考えている自分にはどうでもいい論点です。

 

ですから私にできるのはブログから脳内で貧乏脳から合理的な考えができる脳へ変えれるのを目的としてます。

 

今回の記事にある貧困層に対する政策として自己責任では無いという論点で政策なら良いんじゃないの?でも人生に間に合わないからそんなのどうでも良いよねというのが私の考えになります。